『柄井川柳(からいせんりゅう)』

柄井川柳は、江戸時代中期、享保3年(1718年)生まれの、前句付けの点者です。

柄井川柳の生まれた柄井家は、江戸は浅草の新堀端竜宝寺門前町における名主(なぬし)の家柄でした。柄井川柳は幼名を勇之助、あだ名のような通称を八右衛門、名を正道といい、無名庵川柳とは前句付け点者としての号でした。

宝暦5年(1755)年、柄井正道は若くして家を継いで名主となりました。

当初は談林派俳諧の点者だったといわれることもある柄井川柳ですが、宝暦7年8月(1757年10月)、前句付けの点者として無名庵川柳という号で、初めて万句合興行といわれる句の公募を行いました。

それを皮切りに、柄井川柳は、1月に3回、5の付く日を合言葉に万句合を興行し始めました。これが大当たりし、宝暦12年10月15日(1762年11月30日)の句合における応募句は、総計1万句以上となり、民衆に大流行したことが現代にも伝えられています。

柄井川柳の万句合がこれほど受けた理由は、応募数に比した高い番勝句の比率にあるといえます。そればかりではなく、柄井川柳は斬新な趣向の句を採り入れ、高点句印刷物で披露することを厭わず、それによって柄井川柳の流派の向上とする類稀な編纂者としての才能を持っていたとされています。また、そのような句を見つける卓越した眼を持っていました。そのため、上流武家にも町人にも好まれました。

呉陵軒可有とともに刊行した川柳の句集・誹風柳多留が売れたことも、柄井川柳の評による句の流行を後押し、このような五七五だけの句が川柳と呼称されるようになりました。

柄井正道は、寛政2年9月23日(1790年10月30日)に亡くなりました。

辞世の句は次のように伝えられています。

  木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳
  柄井正道

柄井川柳を初世として、川柳の号はその後、15世脇屋川柳に至るまで継承されました。

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