村田周魚(しゅうぎょ)




『村田周魚(しゅうぎょ)』

村田周魚は、川柳の六大家の1人で、父は俳諧の宗匠でした。

1889年に江戸で生まれ、本名を泰助といいました。門前の小僧ならぬ門内の小僧として、自宅で催された俳句の講義に6歳で加わっていたとされます。

俳諧の前句付けを聞き及び、俳句から川柳へと鞍替え、1913年には井上剣花坊の主催する柳樽寺川柳会の同人になって、句作に励んでいました。鯛坊という号もありました。

村田周魚は東京薬学校卒業後、『薬学の友』に寄稿、警視庁衛生部勤務や薬業新聞経営を経て、1920年、きやり吟社を創立、八十島可喜津や水島不老とともに『川柳きやり』という川柳誌を創刊し、これを大いに広めました。

1927年に、川柳のための号が周魚となりました。

井上剣花坊らの提唱したという、『川柳は柳樽初編に戻れ』といったスローガンを遵守し、『日常茶飯』という俗な切り口の、難しい言葉を使用しない作風を貫きました。村田周魚は、1967年に亡くなりました。

  例.
  老妻の血圧株にゆずりたし
  どの党も積木に似たる政治論
  掌に運があるとは面白し
  電柱に犬を真似てるいい月夜




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