井上剣花坊(けんかぼう)




『井上剣花坊(けんかぼう)』

井上剣花坊は、正岡子規と並び称される近代文芸運動の旗手の1人で、川柳作家でした。

明治3年6月3日(1870年7月1日)に、井上剣花坊は山口県萩に生まれました。

幼名を七郎といい、後に幸一と改称しました。よく知られた柳号は、喧嘩っ早い性格という面をアピールして句に面白みをもたせる効果を狙ってか、喧嘩坊すなわち剣花坊となっていました。井上剣花坊の地元山口県では、人と争い競う性質の人を、喧嘩ぼうといったためといわれています。別号を秋剣、柴野龍泉(りゅうせん)ともいいました。

毛利家に仕える萩藩士、井上吉兵衛の長男で、廃藩後に没落という必然の道を辿り、1891年に父を不遇のうちに喪いました。

井上剣花坊は、ほぼ独学で地元小学校代用教員となりました。そして、現山口市の『長周日報』という『鳳陽新報』の前身である新聞社に入社し、新聞記者となりました。

1900年に上京してから、井上剣花坊は文芸欄を担当するようになりました。1901年、井上剣花坊は『越後日報』に就職し、主筆となり、1903年7月には『越後日報』を退社、今度は日本新聞社に就職しました。新聞編集のかたわら新題柳樽(新川柳の前身)欄を創り、剣花坊の柳号で作品を次々に発表、川柳の改革運動に努めたのでした。これは、日本新聞社の新聞『日本』を牙城として正岡子規が俳句革新運動を推進したことをうけて、もう1つの革新運動として、江戸目線ばかりの狂句に陥って世相を斬れないうそぶきとならないよう川柳再興をかけたプロジェクトを勧められ取り組んだものとされます。

新川柳の選者をして、多数の川柳家を育てた後、同社退社後も客員選者として井上剣花坊は新川柳の普及に努めました。『読売新聞』や『國民新聞』の選者となり、また、『主婦之友』や『福岡日日新聞』、『中国民報』の選者ともなるなど多方面で活躍しました。

著書には、『江戸時代の川柳』等があり、視野の広い理知的な作風で知られました。井上剣花坊は終に、全国各地に門下生を従え、新川柳界の総帥と尊仰されました。吉川英治(柳号は雉子郎)はその門下の1人として数え上げられます。

井上剣花坊は昭和9年(1934年)9月11日に亡くなりました。

  絶頂で 天下の見えぬ 霧の海
  井上剣花坊




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