『水谷緑亭(みずたにりょくてい)』

水谷緑亭は、江戸時代後期の川柳作家で、5世川柳を襲名した人になります。立志伝の人といわれていました。

天明7年(1787年)に南茅場町において生まれ、本名を雅好、通称を金蔵といい、別号を腥斎佃(なまぐさいたづくり)と称しました。

というのも水谷金蔵は、幼い頃父を亡くした為に、江戸は佃島の漁師さんで遠縁にあたる水谷太平次に養われたのでした。10代の頃から句作に励んでいたといい、二世川柳・柄井弥惣右衛門から川柳を教わり、腥斎佃という号を名乗ったのでした。二世川柳が亡くなると、四世川柳人見周助に川柳を学びました。

天保8年(1837年)に水谷緑亭は五世川柳を継承します。

緑亭は、控えめな人格であったといい、養父母の佃島の漁師さん達に孝養をつくし、佃島の風紀を正したなどの功績により、町の奉行所から3度も褒章を授かったという逸話があり、川柳についてだけでなく衆望を集めていました。

水谷緑亭は、柳風式法を定めて、政(まつりごと)を詠まない、大名らの実名を句に詠み込まない、といった事柄を旨としました。

比喩、見立、虚実、隠語、隠題、本末、正体、半比、反復、そして字響から成る『句案十体』をも定め、それを以って『柳風狂句』と新たに命名し、新時代の川柳のキャッチフレーズとしました。

水谷緑亭は、粗製濫造されるようになってきていた、江戸末期の川柳句集『誹風柳多留』に対抗し、天保12年(1841年)に『新編柳多留』を刊行し始めます。こちらは嘉永2年(1849年)の最終刊まで、実に55編を数えました。

水谷緑亭は安政5年(1858年)にコレラの流行により亡くなりました。

川柳の名跡は、水谷緑亭の長男・和風亭川柳(醒斎ごまめ)に継承されました。

佃の住吉神社には水谷緑亭の高潔な苦労人ぶりが偲ばれる名句の句碑があります。

  和らかで かたく持ちたし 人ごころ
  水谷緑亭

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