『四世川柳人見周助』
四世川柳人見周助は、安永7(1778)年9月に、江戸で生まれました。
江戸南町奉行は筒井伊賀守二番組与力配下にあり、物書同心でした。
人見周助は文日堂礫川の折句連に属しましたが、二世川柳の門人となり、賎(しず)丸を称しました。
文化3年(1806年)の『誹風柳多留』に勝句8句が初めて見られ、出句数の多さが偲ばれるエピソードとなりました。
文日堂に推され評者となり、更に文政7年(1810年)、三世川柳が僅かな期間で引退したため、周辺の人々に推され、四世川柳を継承しました。川柳の号の初代はかの有名な柄井川柳でした。二世川柳を柄井川柳の長男が継ぎ、三世川柳を柄井川柳の三男が継承していました。
四世川柳人見周助が文化8年の『誹風柳多留』58篇の選者となった際には、序を十返舎一九が著しました。
四世川柳人見周助は、自らの句風を俳風狂句と名付けていましたが、天保8年(1837年)に引退して、柳翁と名乗るようになりました。
そして、天保15年(1844)年2月に亡くなりました。