『阪井久良伎(くらき)』
阪井久良伎は、川柳の選者で川柳作家でもある人で、本名を辨(わかち)といいました。
明治初頭から1945年の人物で、川柳革新運動を井上剣花坊と担ったことで知られました。
阪井久良伎は共立英語学校高等師範国文科に在籍中、石城や徒然坊の筆名で和歌と漢詩の投稿をするうち、新聞社勤務を経て、『旧派歌人十余家の自賛歌十首』という記事を書きました。
しかし正岡子規がこれに反発し、『歌よみに与ふる書』によって逆襲されます。
すると、阪井久良伎は日本新聞社の川柳壇の選者となり、川柳の革新運動を始めました。
井上剣花坊が入社後において新川柳を担当しだすと、阪井久良伎は『電報新聞』において川柳壇を担当するようになり、ともに川柳の革新運動を推進していきます。
さらに、久良岐社を立ち上げ、阪井久良伎は川柳の雑誌である『五月鯉』を創刊しました。その後も『獅子頭』を、続いて大正時代には『川柳文学』を創刊し、川柳を公的に広めました。
桃山の 方へ人魂 二ツ飛び
乃木将軍殉死につき 阪井久良伎