『麻生路郎(じろう)』
麻生路郎は、川柳六大家の1人で、文明開化の頃は1888年に広島県尾道市において生まれました。
麻生路郎は、10歳で大阪へ移り、大阪高商(現大阪市立大学)在学中に川柳に親しみを感じ、作句を始めたとされます。16歳で田能村朴念仁選に投稿を開始しました。そのようにして川柳に慣れ親しむうち、大阪高商(現大阪市立大学)卒業後に大阪電信局、毎日新聞記者、病院事務長などの職を転々として、1924年『川柳雑誌』を創刊するに至りました。
1936年には、川柳職業人を宣言し、川柳誌経営を職業として成立させたことで広く知られます。
麻生路郎は川柳について、『人の肺腑を衝く十七音字中心の人間陶冶の詩である』ということを旨として、『いのちある句を創れ』、『1句を残せ』などをスローガンに、数多くの後進を育成し、川柳の隆盛に努めました。妻も川柳家であり、そのような妻をして、酒豪としての麻生路郎のあまりの酷さから、『飲んで欲しやめても欲しい酒を注ぎ』という名川柳を詠ましめたことでも有名です。
しかしやはり、1965年に肝臓障害で亡くなったとされます。享年は77歳でした。
とはいえ、『川柳雑誌』は大阪の川柳雑誌である『川柳塔』に後を継がれています。
麻生路郎の川柳は感覚的なことを巧みに表現した句や、社会の重大事件に際しての率直なコメントなどを基調としているとされます。
例.
俺に似よ 俺に似るなと 子をおもい
大杉(大杉栄のこと)を 殺し思想を 取り逃がし
あの博士 今度は民主主義を売り
ほほえめば ほほえむ川田順の恋